• 中華そば

  • 北野天満宮を真っすぐ下がり、一条通(大将軍商店街)と交わるあたりに《誠養軒》はある。数こそ減ってはいるが京都市内にも残る町中華、その中でも際立って渋くディープな一軒だ。「古い」「狭い」「汚い」「得体が知れない」の四拍子が揃った店構えで、一見客や観光客を寄せ付けない。その一方で餃子の隠れた名店として地元民や通の間では有名であり、時には外に待ちが出来るという。そんな、通りかかる度に気にこそなってはいたが暖簾を潜れず終いだった誠養軒に、初めて突撃する。
    時間は遅めの21時前。店の灯りと人の気配を確認し、いざ入店……しようと思ったら、入口の前で門番のように陣取る一匹のキジトラ猫と目が合った。
    『帰レ。此処ハ貴様ノ来ル場所デハナイ』とでも言いたげにこちらを睨みつけている。しかし一度馬から降りた以上、啜らねば帰れぬのがラーメン野武士。踏み出した一歩で猫を追い払い、意を決し引き戸を開ける。
    今度は鋭い眼光の老店主と目が合った。こちらが一見であることを察したのか、開口一番。

    「何を注文(たの)まれるおつもりで?」

    今まで200軒以上のラーメン屋を訪店してきたが、そんな事を言われたのは初めてである。注文したら不都合なメニューでもあるのだろうか。それとも何かマズいタイミングで入店してしまったのだろうか。謎のヒリ付いた空気に気圧されつつも、咄嗟に口をついて出た「ラ、ラーメン」の一言で入店を許された。本当は絶品と評判の焼餃子も頼みたかったのだが、そう言い出せない雰囲気が確かにあった。
    カウンターが5席、四人掛けのテーブルが2席の狭い店内。前者はほぼ物置と化していたため、奥のテーブル席に通される(手前の席は常連と思しき家族連れが焼餃子をビールで流し込んでいた。畜生)。
    見渡した店内は、半ば店主の自室のように雑然としている。脇に積まれた雑誌は『ナショナルジオグラフィック』に『日経サイエンス』……町中華らしからぬラインナップが目立つ。壁にはラミネート加工されたメニューが貼られている。【中華そば(710円)】を筆頭に麺類のバリエーション、次いで飯モノ、中華系の主菜副菜が続く。横には何枚かの写真画像が貼られている。北野天満宮の大鳥居、その祭神・菅原道真に因んだであろうオリジナルメニュー【白梅麺】と【紅梅麺】、そして厨房でややはにかむように笑う店主のスナップ。その上には定休日が月曜であること、ただし25日は例外であること、そして衝撃的な文言が記されていた。

    『毎日やる気がなくなり次第、帰ります』

    何と潔い。もしかしたら、店主のやる気が切れるか否かのタイミングで訪店してしまったのだろうか。だとしたら最悪だ。しかし、それを自分がどうやって予期できるというのだ……………ん?
    待てど暮らせどオーダーを訊かれない。それどころか、厨房を見れば何やら麺を湯がき始めているではないか。あれ……これは、もしかして……。
    着丼。何てこった。麺類を食べたいというニュアンスで「ラーメン」と伝えたら、【中華そば】=ラーメンが出てきてしまった。だがこれは誰も悪くない。強いて言うなら伝達し損ねた自分の落ち度である。合掌、そして啜ろう。
    これぞ町中華のラーメンといったパーツで構成された、極めてニュートラルな中華そば。スープが比較的澄んでおり、脂っ気もほぼ皆無なのは京都では珍しい部類に入るのではないだろうか。外見通りのあっさり&懐かしい鶏ガラ醤油に、多めに振られた粉末胡椒の辛みがとてもマッチする。こんな何でもないラーメンの熱さが、こんな寒く暗い夜には沁みる。

    「少しは温まりましたでしょう?」

    完食間際、思いもよらぬ言葉を店主から掛けられた。これが一番沁みたかも知れない。




    【追記】

    上記のテキストを書き終えた後、ハッと気付いた。画像検索で出て来た誠養軒の軒には、いずれも雷紋をあしらった真っ赤な暖簾が掛かっている。
    自分が訪店した際に、それを潜った記憶がない猫が睨んでいた入口に、暖簾は無かった。

    あの時、すでに店は閉まっていたのだ。

    何という事だ。自分はラストオーダー後に、のこのこ入店してしまったのか……!
    そんな胡乱げな一見客を、店主は迎え入れた。そして拵えてくれたのが、あの熱い中華そば。

    ……嗚呼。やはりラーメンは深く、素晴らしい。
    そして自分は未熟である。